宕陰地域は、京都市の北西部に位置し、周囲は山に囲まれ、標高約450mに集落があります。 京都市中心部に比べ、気温は5~6度は低くなります。 集落の東側には、愛宕山924m、地蔵山947m(京都府標高5位)があります。

自然環境&歴史

樒原(しきみがはら)の歴史

「しきみ」の自生する七谷川水源を開拓した場所といわれたのが、地名の由来です。
昔は、原村といわれ、現在でも地元の人々は「原」と呼んでいます。
愛宕山の山腹の「腹」からきたとの説もあります。
平安時代初期より愛宕信仰が広まるにつれ、近隣諸国より参詣者があり清滝道の表参道に対して樒原道は、裏参道と言われていました。丹波・丹後・摂津国辺りからは、この道が愛宕山へ登る主たる参道で、茶屋から旅籠、酒屋などができて愛宕参りの宿場町又は門前町という形で発展しました。
元禄年間(1688年-1704年)に鳴滝の御用砥石氏,本間五郎左衛門が樒原で砥石の採掘を始め「原の本山砥石」として全国に知られるようになりました。
しかし、明治になり廃仏毀釈のため愛宕山が衰退し、交通の発達による宿場町の衰退で静かな山里に戻っていきました。

越畑(こしはた)の歴史

814年(平安時代前期)愛宕山白雲寺の中興の祖「慶俊聖」に仕えていた雲平・竜徳という2人が聖の用事で丹波国に行くことが多く、その間に人家がなく往来に大変不便であったことに気づき、愛宕山参詣者の交通の便を良くするために越畑の地を開拓しました。
愛宕山の腰に位置することから「腰畑」と呼ばれていました。
その後、都から貴族の末臣達などが移り住み集落として発展。鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えました。
明治4年に芦見谷より村人総出で3km以上に及ぶ水路を開削し、その後、大雨時によく決壊し補修が大変だったので、明治38年、当時の小林村長が水源地である京北細野村と交渉し、給水権を得て上大谷山をくりぬき隧道を完成させました。
平成21年度から3年間、事業費約3億2千万円の「農業基盤整備事業」により水路トンネル等も整備され安定した灌漑用水が実現できました。

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